全機連の歩み

全機連の歩み

黎明期

日本での工作機械の生産は、海外の工作機械メーカーの台頭に合わせ、明治20年代ごろからはじまっており、その黎明は明治37年、8年の日露戦争のときともいわれている。明治末期から大正初期にかけて工作機械もひとつの工業的な規模をもつようになり他産業の発展に大いに寄与し、俗に「10年1年」といわれた工作機械工業の高不況の典型的な波の中で大正から昭和へと技術的にも量的にも進展をみせ、第2次世界大戦中にあっては、戦争目的に集約されながら生産量を増大させた。

戦後はその莫大な量の流通を「中古機械商」が担うことになった。昭和27年から工作機械工業に対し設備更新のため「工作機械輸入補助金」と「工作機械等試作補助金」を出しているが、各メーカーとも国際水準の性能を持つ工作機械を早く作ろうとする意識が、各メーカーのあいだに強まっていた。実際に数十種類の新鋭機が国産化され現在の工作機械の技術の中核となっていった。さらに30年代に入ると生産は順調に伸び続け、昭和37年には年産1千億円台の大台乗せを果たしている。この工作機械発展の軌跡は、そのまま鍛圧機械にも通じていたといえ、数量の差こそあれ同様の生産カーブを描いていた。

このような工作機械や鍛圧機械の量的拡大にともなって、戦後の一時期「中古機流通」の主な担い手であった「機械商」を通じての販売シェアも徐々ながら高まっていった。

すでに昭和33年頃より、機械販売業界の従来の観念を打破し、近代的経営方針による機械業界の発展を図ろうとする機運が部分的であるにせよ全国的に動きはじめていた。各地区での機械商の組織化は急ピッチとなり、全国的組織化への土壌は醸成しつつあったといえよう。

東京機械業連合会

そのなかで東京機械業連合会は、昭和36年1月27日、東京・芝白金「八芳園」で結成総会を開催している。これには230社の加盟社から178名が出席、初代会長に波多野一郎氏(波多野機械店社長)を選出した。席上、波多野会長は「業界の体質改善という意味からも、その一段階としてここに連合会の結成をみたことは大いに喜ばしい。この連合会をさらに飛躍発展させ、近い将来には全国的な組織にまで盛り上げねばならない」旨、あいさつを行っている。

当時の機械工業振興臨時措置法にもとづく合理化基本計画によると、工作機械は昭和40年度の生産目標は1,300億円であり、鍛圧機械では258億円(うち輸出30億円)としていた。

大阪機械業連合会

東に呼応するようにして、昭和37年11月16日、大阪市東区内久宝寺町2丁目の「山中荘」で大阪機械業連合会の創立総会が開かれている。これには154社の会員中、多数の参加者があり、初代会長に仙波利吉氏(仙波機械社長、大阪機械競売会会長)が選出されている。席上、仙波会長は「東京に続き連合会が発足して誠に喜ばしい。今後は、名古屋方面、その他にも呼びかけて全国的な組織をつくり機械販売商社の共存共栄をはかりたい」旨、あいさつをした。

いわば東西両連合会の発足によって全国的な大同団結気運が一層強まったわけである。

群馬、新潟、名古屋、北陸

この時期を前後に、各地区では、昭和36年3月に会員23名で群馬機械業連合会(会長・神垣偵三東陽商工社長)、同年6月に会員16名で新潟機械業連合会(会長・鈴木由太郎鈴木機械社長)、昭和37年11月には名古屋機械商懇談会(会長・栗本文市栗本機械工業社長、のち名古屋機械業連合会と改称)、昭和38年3月には北陸機械業連合会(会長・光谷政雄光谷金属鋼業社長)が結成されている。

全国組織結成へ動く

全国組織結成への動きは、大阪機械業連合会結成大会が開かれた直後、大阪と東京の各役員が一同に会し協議の結果、設立準備がはじまり、名古屋機械業連合会とも協議の結果、各連合会に通知し、昭和38年1月17日、18日の両日、熱海市の「青木館」で、工作機械ならびに鍛圧機械販売商社の全国組織結成問題を協議するための全日本機械業連合会結成準備委員会が開かれた。

準備委員会を開催

この準備委員会の初会合には、東京、大阪、名古屋、新潟、金沢、群馬の6都府県からそれぞれ機械販売商社団体の代表者、役員など24名が出席、会則審議委員会、会費の徴収・結成大会準備審議委員会、事業計画案審議会など3つの小委員会に分けてそれぞれ議案を作成、されに全体会議で質疑応答のうえ採決するという形をとった。

事業計画案など決める

当日決まった事業計画案のあらましによると、1:「古物営業法」から「機械」の文字を削除する運動、2:全会員に「同業者」の印として会員証を作成配布し、店頭に掲示する、3:会員の取り扱う工作機械・鍛圧機械のうち優秀な製品に対し全機連として製作・販売を軌道にのせる、4:東京、大阪、名古屋に工作機械のターミナル・センターをつくり国内外への販売体制を整えていく、5:会員相互の地位向上を目的とする講演会、見学会の実施、6:減価償却に関する法律の延長および3の全機連推薦機種をこのなかに含ませる、7:全機連を社団法人化する、8:損害保険制度を全機連の事業として推進していく、などであった。

また、全機連の運営をはかる役員の割り振りは、一応各地区の実情にそって東京11名、大阪9名、名古屋5名、その他の地域5名の比率で選ぶことに意見が一致、会長は東京側に一任し、副会長は東京1名、大阪1名、名古屋1名の3名を選出することに内定した。

輸入工作機械も取り扱う

全機連発足ごろ、輸入工作機械協会と東京機械業連合会が、輸入工作機械販売促進のため業務提携を決めたことがある。国産機械を主力に販売していた販売業者が、貿易の本格自由化を迎えて販売業務を拡張しようとしていた矢先である。波多野一郎会長は、中央、城東、城西、城北、城南、京北の6支部長と協議し1:輸入商社の取扱製品および在庫リストを輸入工作機械協会が作成して東機連に送り各販売業者に連絡する、2:アフターサービスは各輸入商社が責任をもつ、などを決めた。

昭和38年3月、全機連結成大会を開催

こうして全日本機械業連合会の結成大会は、昭和38年3月21日午後1時から東京・丸の内の東京商工会議所ホールで約200名が出席して開かれ、会則、役員などを決定したあと会長に波多野一郎(東京機械業連合会会長)を選任して正式に発足した。

初代会長に波多野一郎氏

発足時の会員数は東京機械業連合会240社、大阪機械業連合会160社、名古屋機械業連合会55社、群馬機械業連合会23社、新潟機械業連合会16社、北陸機械業連合会22社の計516社。役員は初代会長に波多野一郎氏(東京・波多野機械店)、副会長に金子静一氏(東京・東京金子機械製作所)仙波利吉氏(大阪・仙波機械)栗本文市氏(名古屋・栗本機械工業)会計は、村田信一氏(東京・村田商店)出口政吉氏(大阪・出口機械)の各氏をそれぞれ選出、また、理事・監事には次の各氏を選んだ。理事=[東京]番田幸介(番田機工)、小宮山熊吉(小宮山機械)、岩間茂良(岩間商店)、源平安太郎(アジア機械製作所)、野田保(野田保商店)、今井茂(今井機械工業)、斉藤忠雄(斉藤忠雄商店)、日比辰三郎(日章機械)、秋山貞行(秋山興業)、牛膓秀熊(牛膓商店)、鹿島徳蔵(協和機械店)、新海栄蔵(三新機械)、坂田金三(新生機械)、森隆三(森隆工機)、牧野光男(牧野商店)、三上泰治(三上商工)。[大阪]=赤沢一市(赤沢機械)、波床良三(大栄機械)、島津憲一(野田機工営業所)、桝田秀雄(桝田機械)、大林幸雄(大林機械)、高橋幸康(ヨウワ工業)、中川勝(中川機械)(他3名未定)。[名古屋]=石川作次郎(石川金属)、樅山光治(モミ山プレス機械)、黒川広一(黒川商店)、山下寅蔵(山下商店)、岡本惣助(天満屋工機)。[新潟]=鈴木由太郎(鈴木機械店)、平沢静夫(照栄産業)。[北陸]=光谷政雄(光谷金属興業)、中村金三(中村機械)。[群馬]=未定。[監事]=皆川定八(東京・皆川機械)、岩田時義(名古屋・岩田時義商店)

親睦と融和で業界振興へ

会則によると全機連は「会員相互の親睦と融和により業界の振興を図るとともに、わが国機械工業の興隆発展に寄与する」ことを目的としており、次のような事業を決めた。1:全会員にバッジおよび会員証(看板)ならびに会員名簿を作成のうえ配布する。2:会員相互の地位向上を目的とする講演会、見学会を実施する、3:法人組織化する、4:会員の取り扱う機械のうち優秀な機械を厳選して会員にあっせんする、5:東京、大阪、名古屋に機械のターミナル・センターをつくり国内外への販売体制を整えていく、6:古物営業法から鍛圧・板金・工作機械類を削除する運動を行う、7:特別償却に関する法律の期間延長および耐用年数の期間短縮のための運動を行う、8:割賦販売の損害保障保険について、会員が希望する場合には保険会社と有利な条件で契約するようあっせんする、9:会員の取り扱う機械の見本市を開催する、ことなどである。

尚、結成大会には菅沼忠雄全日本機械工具商連合会会長、山田茂三郎輸入工作機械協会会長らの来賓祝辞があり、議事終了のあと祝賀パーティーを開いた。

(このころ悪質業者の横行に対応するため、7月1日付けで、全機連と大機連名により、機械割賦販売は全て会規定の様式によるなどの申し合わせを決めた通達書を配布している)